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お供えの花と葬儀と人間の歴史



亡くなった人にお供えの花を手向けていた人間の遠い祖先の人たち

約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属のネアンデルタール人は
仲間の死を理解し、墓にお供えの花を手向けていたことが、わかっています。
お葬式という概念すらなかったはずですが、死というものを理解していたのですね。
(ラルフ・ソレツキ「シャニダール洞窟の謎」蒼樹書房より)


縄文時代の人のお供えの花

紀元前約1万年前からの縄文時代でも死者にお供えの花を手向けていたことがわかっています。



平安時代、極楽浄土へ旅立つ準備としてのお供えの花

平安時代に阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えることによって西方極楽浄土への往生を実現しようとする浄土信仰が台頭してきました。
源信が書いた「往生要集」は全3巻10章からなる書物で、平安時代の末法の世にてをさしのべました。
源信は 「往生要集」の中で臨終の作法についても書いています。
死を迎える人は西向きに寝かせ、前に阿弥陀仏を安置し、部屋には香をたき、お花を供えよ、と書いています。
この場合の「花」は「お供えの花」とは違います。
人が極楽浄土に行くための準備をする場ですが、花を飾るように往生要集には書かれているそうです。



室町時代のお供えの花、雪柳

室町15代将軍の足利義晴(よしはる)が1550年に没した際のお葬式の様子が「万松院殿穴太記(ばんしょういんどのあなほき)」に記してあるそうです。
義晴は京都の東山慈照寺に5月7日に移されました。
遺体を収めた桶は輿(こし)にのせられて運ばれ、西向きに置かれ、供をしてきた人々は焼香をして退出しました。
位牌には竹に合わせてきった絹がかけられ、左右の脇には24本のお供えのろうそくが立てられ、花瓶に挿した雪柳が4本置かれていました。
足利義晴のお供えの花は雪柳だったのですね。
葬儀の列には、鉢をうつ行者から、ばちををつく僧侶が加わりました。
更に燭台や香燭などから、花瓶と雪柳4本を持つ僧まで、合計11人もの僧が加わりました。
葬儀の列にちゃんとお花を持つ係りの僧がいたというのは、驚きですね。
昔から人間はやはり、お供えの時にはお花を送っていたようですね。
また、お供えのお花の種類も、「雪柳」というのが、何か、モダンで素敵だな、と個人的には思いました。
今の時代では、お供えの花に雪柳を手向ける人はそんなに多くありません。



織田信長のお葬式は豪華絢爛だった

日本の歴史上の人気の最も高い人物の一人として上げられる織田信長のお葬式についても書物が残っています。
が、しかし実は信長の遺体おろか、首も結局見つからなかったのです。
天下が変わったことを知らしめるために光秀が必死でさがしたようですが、ついに発見(判別)できていないそうです。
信長の葬儀は遺体のないままに執り行われました。
京都大徳寺にて、豊臣秀吉の仕切りの下、執り行われました。
棺は金銀、宝玉で飾られ、これ以上内贅をつくしたものであったろう、と書かれています。
参列者は3千人を超え、秀吉の弟の秀長の兵3万人が警護にあたったという壮大なお葬式だったようです。
金銀、宝玉がお葬式に飾られるというのは、今の時代ではあまり想像がつきませんね。
歴史と文化背景により、お葬式、そしてそこに飾られるお供えの花のあるべき姿も刻々と変わっているようですね。



本居宣長のお供えの花は桜の木?

江戸時代、国学者・歌人の本居宣長は、自分の死後、葬式の仕方から、墓の建て方、法事の方法など事細かに指定していたそうです。
沐浴がすんだら、いつものように髭をそり、髪を結い、衣服はその時節にふさわしいものならいい、など自分の遺体の格好などから
葬式の列まで細かく指定していたそうです。
葬式の列の人の役割から人数まですべて指定されていました。
また、お葬式の装具に関しては、のぼり、天蓋、ちょうちんなどは必要ないと書かれています。
また宣長は戒名も自分でつけていました。
お墓のサイズは7尺四方で、真ん中を少し後ろによせて塚を築くと指定していました。
そして、その塚の高さは3〜4尺ほどにして、芝を植え、崩れないようにしておき、時々見回って崩れている場所を直しておく、
など、管理の仕方まで指定していたそうです。これはすごいですね。
そして最後に、塚には山桜の花振りの良いものを選んで植える、と書いてありました。
本居宣長がこの世との最後に選んだお供えの花は桜だったのです。
宣長がこの遺言をしたのは死の1年前でした。
宣長が望んだとおり塚には桜の木が植えられたそうです。


徳川慶喜のお葬式はあふれんばかりのさかきと生花が供えられた

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜のお葬式をみてみましょう。
お葬式に訪れた人の数はたくさんいて、11月の寒風の中、谷中の斉殿から植えの界隈まで押し寄せ葬式の列の沿道人波で埋まったそうです。
見物人を店の奥に呼び込む茶店まで出ていたそうです。
道は交通規制がかけられ、そのみちには榊(さかき)や生花がすきまもなく飾られたそうです。
お供えの花として種類はかかれていませんでしたが、とにかく豪華にお花が飾られたようですね。
徳川慶喜の棺はヒノキの白木作りで正面と側面はまばゆいばかりの金色の葵の縄文が打たれていたそうです。



明治時代に「告別式」につながる式が誕生した

明治時代に自由民権運動の流れをつくった中江兆民は「日本のルソー」とも呼ばれ、またフランス語もそれはそれは堪能だったそうです。
実はこの中江兆民は無神論者で常日頃から、宗教を信じないので葬式は不要、と言っていたようです。
しかし遺された人たちにすれば葬式をしなくてもいいといわれてもどうしていいかわかりませんでした。
そこで遺族は板垣退助や大石正巳らに相談を持ちかけました。
そこで板垣らが考え出したのが、宗教色を配したセレモニーだったのです。
それが「告別式」と名づけられました。
現在の告別式はこのとき生まれたのです。
中江兆民の意思によって生まれた告別式は現在ひろく一般的なものとなりました。
告別式のお花については記されていませんでしたが、死後のことにこだわらなかった中江兆民なら、死後のお花など不要、すべては自然に帰るのみ、などという言葉が返ってきそうですね。
この中江兆民のエピソードから、葬式は亡くなった人のためよりもむしろ、遺された遺族のためのものであると強く感じました。
本人は「葬式など必要ない!」とはいえ、遺族はどうしていいかわからない・・・と迷うのですものね。
日本史に重要な役割をになった中江兆民ですが、葬式の歴史にも重要な役割をになっていたんですね。



福沢諭吉は一切のお供えの花や香典を断った

そして明治時代思想家として著名なのがあの福沢諭吉です。
福沢諭吉は68歳のとき脳出血で帰らぬ人となりました。
死亡広告には「生花・造花・香典その他一切の贈り物は亡き父の遺言により固くお断り申し上げ候」の1文が盛り込まれたそうです。
死亡通知はの数は4500通に及びました。
葬式の当日、出棺は福沢諭吉亭から善福寺に向かいました。
棺は邸内の離れの奥の間に、白布に覆われて安置されました。
卓上に遺影と位牌が置かれ、左右にお供えの花が供えられたそうです。
お葬式に参列した人の数は1万5千人にものぼったそうです。



本田宗一郎は社葬ではなくもちろん、お葬式でもなく、「お礼の会」を開催していた

そして近代、株式会社ホンダを1代で大企業へと躍進させた創業者、本田宗一郎のお葬式はどのようなものだったのでしょうか。
常識的には会社が執り行う「社葬」になるはずです。
しかし本田宗一郎は断固社葬を拒否したそうです。
「クルマ屋が交通渋滞を招く葬儀なんかやれない。みんなの貴重な時間を割き、行列は近所に迷惑をかける。葬儀はやるな」
本田宗一郎自身がそういい残していたのだそうです。
そして、お葬式でも、告別式でも、お別れの会でも、偲ぶ会でもない、「お礼の会」というものがとり行われたそうです。
本社ビルの二階ホールには真っ赤なパネルに本田宗一郎さんの写真が飾られ「皆様のおかげで幸せな人生でした。どうもありがとう」
の言葉が添えられていました。
朝10時から5時までの開催時刻の間に焼く4700人もの人がつめかけました。
喪服も焼香もなくモーツァルトの「ディベルティメント」が流れる中、本田宗一郎さんの人生をたどるビデオが流され、集まった人たちは談笑するなど和やかな会だったそうです。
本田宗一郎さんにふさわしい「型破り」のお葬式(ではありませんね。お礼の会ですね)だったようです。
本田宗一郎さんのお墓は静岡県にありますが、今でもお花が絶えることはないそうです。


「お葬式」の日本史:新谷尚紀監修 青春出版社より とても面白い本でした。ありがとうございました。

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